カスタードプリン?(笑)
『チャールストン』
Chrlston
1963年 仏 メイアン
もう終了した展覧会ですが、国立新美術館で開催されたアーティストファイル2008という展覧会を見てきました。
様々なジャンルの中堅・若手作家を8人集めた展覧会です。
今回は第一回で、これから毎年一回、現代美術の動向を紹介するために開催する予定のようです。
出展している中でピピッと来た人が何人かいたのですが、その中の一人に佐伯洋江さんという人がいます。
以前目黒区美術館で開催された展示会(「線の迷宮<ラビリンス>II − 鉛筆と黒鉛の旋律」)のことを書いた時に、名前だけご紹介したような気がします。
彼女の作品は
こちらでご覧下さい。
彼女の作品は、白い厚紙の上に、鉛筆で、幻想的なモチーフを、細密に描いていくものです。
これまでに見たことが無い、だけどとても面白い作品群です。
彼女の作品の特徴は上のリンクで見ていただくほうが分かりやすいと思います。
ですので、細かいことは書きませんが、僕が感心したのはその空間の使い方です。
日本画の特徴を外国人が見たときに、必ず出てくるのが『間』の取り方だと思います。
彼女の作品はその間を積極的に、意志的に作っています。
一時、僕も『間』の作り方が分からなくて、日本美術の展覧会をいくつか回ったことがありますが、彼女の間の取り方はそれらのどの画家たちとも違っていました。
彼女の作品の間は『完全な間』です。
そこには『間』しかありません。
でも、それはそこになければならない空間で、大き過ぎも小さ過ぎもせず、必然的にそこにあります。
普通、絵画においても写真においても間というのは、完全な空間ではありません。
一見完全な空間のように見えても、よく見ると小さな模様をぽつんと置いてみたり、大空に鳥が一羽しかいなくても背景の空には雲があったり、濃淡があったりします。
背景が単純な壁であってもそこには、汚れや漆喰のアンジュレーションがあって、微妙なニュアンスが作られています。
あえて言えば、白い紙に書かれたイラストレーションの背景がそのような完全な間に近いかもしれませんが、そこには作者の積極的な意志やどうしてもなければならぬ必然性を感じさせるものではありません。
あくまでも、間というのは脇役です。
しかし、彼女の空間は、なにも描かれてはいませんが、彼女が必要として作っているという意味で積極的な意志がありますし、そこには何も描かれてはいけないのだという必然性が感じられます。
つまり描かれているモチーフと一体のものであって、モチーフを描くためにはどうしても必要だからそこにあるのです。
僕の経験が少ないだけかもしれませんが、僕はそういう間というものを見た記憶がありません。
写真に何とか応用できないかなと思います。
その間を意識的に使いこなせれば、表現の幅が広がるような気がします。